仏事の効用

 日々雑事をこなしていると、時間は目の前を一瞬のうちに通りすぎ、そして消費されてしまう。しかし、6年という歳月を区切って振り返ってみれば、消費したはずの時間が目の前にあらわれてくる。
 父が亡くなって6年。仏事では7回忌となる。なじみの僧侶は、めずらしく印象に残る話しをした。それはいくぶん紋切りに近いものであったかもしれないが、それでもいつものシャイな僧徒にしては上出来なような気がした。
 父の縁者や家族はそれぞれに年をかさね、またいろいろな事情をかかえていた。それは、6年という時間を感じさせるには十分だった。きっと見事に、日常の雑事を積みかさねてきたことだろう。
 再会をよろこび、お互いが過ごしてきた時間を確かめ合うことができたのは、僧侶がいう、いささか教科書的だが、亡き父が引き寄せてくれた貴重なひとときのなせる技ではあった。
 父がいなくなり、うちの家族の秩序も大きく変わった。それは、やむをえないことである。生きていくかぎりは、日々変わっていくものだろう。
 それは、親類縁者にだって同じこと。パパだっこ、という小さな姪の姿に、思わず、幼かった我が子がかさなる。我が子はもうそんなことはいうまい。いえば、それは少しあぶない。
 仕事と家事と、子どもたちとの時間にあけくれた毎日。きつかったけれど夢中で走りぬけた。思えばあれが家族の黄金時代だったのだろう。
 今僕は、中国の時間のなかに身を置いている。一瞬のうちに通り過ぎる毎日ではあるが、日々の雑事は、生きていくことそのものである。
 そんな異国での時間は、何年かあとに振り返ると、どんな色をしているのだろうか。
 な〜んて、なんだか妙に気取った文面を起こした自分が、ちょっと気恥ずかしい。明日からはまたスイッチオンの、中国仕様の毎日である。下次見! (^_^;
(photo:日本の風景。晩夏のチングルマ